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如月ますみの「アニメ旧世紀宣告/予告編・仮」
↓すでになつかしささえ感じる、エヴァ風GIFアニメ(河上イチローさん作)
作成時B.G.V:「続・おたくのビデオ1985」OP.
1999年7の月の今、わたし、如月ますみ(ニセ清純年増娘)は宣告する。
今のアニメ界は、そしてアニメ評論界は、「リアリズム崇拝」にオカされている! ……ようだ(←ちょっと弱気(^^;)
「リアリズム崇拝」とは、何か。
作品内の整合性にばかり注目し、物語に説得力を与えるもっとも基本的な要素である「人々の生活とのシンクロ」に目が行かない姿勢のことである。
分かりやすそうなところで、あのアニメ「巨人の星」を例に取ろう。
あの「魔球」に説得力を与えていたのは、その(厳密な意味での)科学的整合性そのものではない。
「巨人の星」というドラマに説得力を与えていたのは、高度成長期の庶民の生活である。貧しくても、がんばって働けば豊かになれるという思い。星飛雄馬が大リーグボール養成ギプスつけて特訓、という場面(今冷静に考えるとある種の児童虐待じゃないかと思えてくる(^^;場面)が、当時の人々の感動を呼んだのは、それがそのころの庶民生活と二重写しになっていたからに他ならない。
「魔球」も、当時の「科学技術」の象徴であったと言えるだろう。
ここでの科学技術とは、'60年代の、まだ純粋な意味で輝いていたころのそれであり、'70年代の石油ショックや公害問題で輝きを失ったそれでも、あるいは'80年代以降の「輝きが失われた」ことさえ過去のこととなった時代の、ただの便利なものとしてのそれでもない。
より正確に言うならば、科学技術そのものと言うより、当時の人々の科学技術についての思いの象徴と言えるであろう。
そのあたりの事情を無視し、「魔球」の科学性を過剰に追求する、というのは、作品の捉え方として妙なものになる。
「SF」一般についてその手の「リアリズム崇拝」をやってしまうと、どんな妙なことになるか。そのいい例が、柳田理科雄氏の空想科学大全シリーズであろう。(いえ、あれはあれでいいんですが)
さて。
分かりやすそうな例として、「巨人の星」をあげたが、他の作品についてはどうであろうか。
「ガンダム」は? 「エヴァ」は? 同じようなところにハマっている評論は、あちこちに存在していないだろうか?
それは近々、わたし、如月ますみ(ニセ清純年増娘)の手によって明らかにされるであろう。
「恐怖の大王とは、あたしのことだぁ!」
P.S.
とかいって、本編を書くのいつになるかわかんない(^^;(←ヲイ)
セカンドインパクトまでには……(コラ)
とりあえず、この方法論で、止まっているウテナの評論を再開しようと思っています。
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